お知らせ

 

 校長   佐々木 進


 愛媛県立松山西中等教育学校のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
 本校の前身は、昭和49年に創立された愛媛県立松山西高等学校です。前年の昭和48年に起きた世界的な石油危機の影響によって開校当初はプレハブ校舎しかなく、生徒たちは、荒れた運動場を教職員と一緒に整地するなどしながら、「新しい学校を自分たちで創る」という「開拓者精神」を発揮しました。そして、雨が降ると、トタン屋根のプレハブ校舎がけたたましく鳴り始めるので、これに負けてはならないと教員の声が校舎の外にまで響き渡り、当時は、生徒と教職員が同様に、不自由な思いよりも新たな学校建設への熱気に包まれた毎日であったといいます。
 その後、生徒と教職員が力を合わせて創り上げた松山西高等学校の歴史と伝統を受け継ぎつつ、平成15年に愛媛県立松山西中学校が併設され、平成18年に、中予地域の県立学校で唯一中高一貫教育を行う、現在の愛媛県立松山西中等教育学校となりました。先述の、創立時に育まれた開拓者精神と、高い理想を求めて生徒と教職員が共に汗を流す「師弟同行」の精神は、今も学校のモットーとして様々な教育活動の中に息づいています。
 本校は、1学年4学級で前期課程3年間と後期課程3年間の計6年間を一貫して学ぶ中等教育学校です。「誠実・自学・創造」の校訓のもと、豊かな心と知性を身に付け、高い志を持って、未来を拓く若者を育成する、という教育方針の中で、生徒たちは1年生から6年生までの幅広い年齢集団の中で自分の「学び」を深め、高め合いながら、たくましく成長しています。授業や学校行事、部活動などを通して自らの夢や希望をかなえようと努力している生徒たちの輝きと伸びゆく力を、これからも教職員全員で守り支え続けてまいります。
 
  令和5年4月

ブログ

松西中等の生徒の皆さんへ

2024年3月31日 14時01分

 生徒の皆さん、春休みをどのように過ごされていますか。エネルギーを十分に蓄え、4月からも輝く笑顔で楽しい毎日にしてください。そして、卒業生の皆さんも、新しいそれぞれの場所で充実した日々をお過ごしください。本校の校誌『久万の台』第48号の巻頭言に書いた「日常が人を救う」を載せ、全員にエールを送ります。

 新年の喜びが悲しみに変わりました。元日の16時10分に発生した「令和6年能登半島地震」によって、1月31日現在、死者238人、負傷者1288人、住家被害2万6541棟、避難所への避難者1万4659人という甚大な被害がもたらされました。命を落とされた方の冥福を祈り、被災された方々の気持ちを思いながら、災害や感染症、戦争等が続く不条理な世の中を生きる生徒たちに何を伝えなければならないかを考えています。
 ちょうど1年前、令和5年元日の朝日新聞に、ベラルーシのノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんへのインタビュー記事が掲載されました。アレクシエービッチさんは、ウクライナ人の母とベラルーシ人の父のもとで生まれ、現在はドイツで事実上の亡命生活を送りながら、ロシア語で執筆活動を続けています。「本当にロシアが大好き」だった彼女は、ベラルーシの協力を得たロシアによるウクライナ侵攻を知った時に「涙がこぼれた」といいます。そして、この侵攻を、ロシア軍が占領した街で残虐な行為が繰り返された状況を踏まえ、「人間から獣がはい出しています」と表現し、作家として、「『本当に、言葉には意味があるのだろうか』と絶望する瞬間があります。それでも私たちの使命は変わりません」、「私たちは『人の中にできるだけ人の部分があるようにするため』に働くのです」と話しています。
 記事の終わり部分に、人はどうすれば絶望から救われるのか、という記者の問いに対して、次のように答えています。「近しい人を亡くした人、絶望の淵に立っている人のよりどころとなるのは、まさに日常そのものだけなのです。例えば、孫の頭をなでること。朝のコーヒーの一杯でもよいでしょう。そんな、何か人間らしいことによって、人は救われるのです。」アレクシエービッチさんは、人の中にある「人の部分」、すなわち人間性を信じ、人間を愛しているのだと思います。作家である彼女のよりどころとなる日常とは、常に社会や時代の犠牲となった「小さき人々」の声につぶさに耳を傾け、それを言葉にしていくことなのでしょう。
 日本の詩人・石原吉郎も、社会の片隅でひっそりと営まれる名もないありふれた生活がいかにかけがえのないものであるかを書いた一人です。石原は第2次世界大戦に従軍し、1945年に現在の中国・ハルビン市でソ連軍に「戦犯」として抑留され、冬は零下50度を下回ることもある極寒のシベリアへ送られ、重労働25年の最高刑を受けたが、1953年に特赦によって帰国した経歴をもちます。その彼の詩に、「世界がほろびる日に」という作品があります。

世界がほろびる日にかぜをひくな /ビールスに気をつけろ /ベランダに /ふとんを干しておけ /ガスの元栓を忘れるな /電気釜は /八時に仕掛けておけ

 8年間もの苛酷な状況下で精神的危機と肉体的な苦痛の中を生きた石原にとって、世界がほろびる瞬間まで守るものは普段通りの生活でした。彼もまた、アレクシエービッチさんと同様に、ありふれた日常だけが人を救い人間性を失わないよりどころとなる、と確信していたように思えます。
 能登半島地震によってそれまでの生活を奪われた方々の話が報道で伝えられ、胸が締め付けられる思いがします。その中で心を打たれた言葉がありました。ある鮮魚店は店舗の倒壊を免れたものの、周辺は2次避難が進み、住民が戻る時期も分かりません。それでも、「店をやめるつもりはさらさらない。やる気満々」。津波で多くの漁船が損傷し、市場も開く見通しは立ちません。それでも、「いつか年寄りが帰ってきたとき、魚屋でもなかったら寂しいやんか」。同じく建物は倒壊しなかったが水道と電気は止まったままの理髪店が、避難所で共に過ごす常連客の声にこたえ、営業を再開しました。バッテリーから給電するライト2個が手元を照らし、水とポットのお湯を避難所から持ち込んで、シャワーや蒸しタオルづくりに使います。「自分は床屋だから、はさみを持つことしかできないし、これで生活している」。また、被災したある地区で唯一のスーパーは、地震から一か月、発生直後から一日も休まずに店を開けています。「ゼロから少しずつ希望の光を見るような一か月だった。先行きは不透明だが、地域の人が集まれるオアシスになれば」。鮮魚店や理髪店、スーパーの店主や従業員には皆、震災前と変わらず仕事に丁寧に取り組み、自分の役目を果たしながら人の役にも立ちたいという誠実さがあります。
 卒業生の皆さん、ありふれた日々のさりげない小さな行いや言葉を、どうか大切にし続けてください。仏教の天台宗の開祖である最澄の教えの中に、「一隅を照らす」というものがあります。「一隅」とは、自分のいる場所、自分が置かれた場所のことをいいます。ですから、自分の居場所で自らが光り輝くことによって、その場を明るくすること、これが「一隅を照らす」という言葉の意味です。最澄は、国の宝とはお金や財宝ではなく、一隅を照らすことや、そのような人こそが貴い宝と説いています。皆さんがこれから、それぞれの場所でそれぞれの役割を精一杯果たしながら、自分らしい人生を歩まれること願っています。