日本の歴史 地域編
2020年3月18日 15時11分 臨時休業中、生徒のみなさんはどんな生活をしているのでしょうか?人ごみの中に行くのは避けたほうがよいと思いますが、散歩ついでに、地域の文化財を見学するというのはどうでしょうか?
5年生の日本史では、夏休みに課題研究として地域史研究を行いましたが、先生たちも、この機会に地域の歴史について理解を深めようということで、「伊予の関ケ原の戦い」にまつわる場所を訪ねました。
関ケ原の戦いは西暦[ ]年、[ ]国の関ケ原で、徳川家康率いる東軍と、[ ]率いる西軍が戦い、東軍が勝利しました。日々問題集で勉強している君たちなら、カッコに入る答えは簡単ですよね。
でも、伊予の関ケ原って、どういうことなの?
正しくは、「三津刈屋口の戦い」とか「三津刈屋畑の戦い」または単に「三津浜の戦い」と呼ばれます。
関ケ原の戦いに際し、正木(松前)城主加藤嘉明は、軍勢を率い東軍に参加しました。あるじが留守となった領地を奪おうと、村上元吉率いる海賊衆(旧村上水軍)や旧河野家家臣の軍勢は、西軍の毛利氏の支援を受けて舟で三津浜に上陸しました。
西軍の村上元吉らは、正木城を守る東軍加藤家の重臣佃十成に対し、城の明け渡しを迫りました。まともに戦って勝ち目はないと考えた佃十成は、自分が病気で城の明け渡しには時間がかかるとだまして、時間を稼ごうとします。しかたなく西軍の軍勢は、古三津付近に分散して宿泊しました。
しかし、西軍の軍勢が油断していることを察した佃十成は、夜のうちに古三津の西軍の陣営を奇襲し、「三津刈屋口の戦い」となったのです。
「三津刈屋口の戦い」の跡を訪ねて、我々はまず、古三津の儀光寺へ行きました。立派なお寺です。
境内に、岡田十五郎の墓がありました。江戸時代後期に、新池(県西の隣のゴルフ場の池)を築いた人です。
お寺から北に向けて少し行くと、赤い鳥居が見えてきました。
「村上大明神」
西軍側の大将であった、村上元吉をまつっています。村上元吉は、能島村上家の嫡男。お父さんは村上武吉といい、日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスが、著書『日本史』の中で、「日本最大の海賊 能島殿」と呼んで恐れた人物です。興味のある人は、歴史小説の『秀吉と武吉』(城山三郎著 新潮文庫)や『村上海賊の娘』(和田竜著 新潮文庫)を読んでみてください。秀吉の海賊禁止令で能島城を追われた村上元吉は、毛利輝元に仕えましたが、勢力の復活を狙ってこの戦いをしかけたのでしょう。
結果は、佃十成率いる東軍に襲われ、討死してしまいました。地元の人々はその死を惜しんで、「村上大明神」としてまつったのです。
さらに道を北へ行くと、道しるべが見えてきました。「左 三津ヶ濱道 (右 松山道)右 太山寺道」と書かれています。今、たどってきた道が松山と三津浜を結ぶ重要な交通路であり、交通の要所で戦いが起こったことが分かります。そこから少し北へ行った所に、法雲寺という寺があり、「宮前文化遺跡案内図」が掲げられていました。散策の案内図として役立ちます。
寺の隣の民家の庭に、東軍側の戦死者加藤長康をまつった祠があり、地元の人から「加藤さん」と呼ばれています。東軍、西軍にかかわりなく、戦死者をまつった地元の人々の温かさが伝わってきます。(つづく)
次回予告 曾根さん、能島さんに、橋本さん、阿部さんまで戦死?