県西生のための地域史研究-伊予の関ケ原 後編-
2020年11月4日 14時47分前回は、伊予の関ケ原と呼ばれる「三津刈屋口の戦い」の古戦場である松山市古三津地区を歩き、村上海賊の当主村上元吉をまつる村上大明神などを訪ねました。詳しくは前編(2000年3月18日記事 日本の歴史 地域編)をご覧ください。コロナ禍で後編のアップロードが遅れてしまい、すみません。
儀光寺から法雲寺の街道沿いには、討死した武将を祀った祠として、「村上さん」と「加藤さん」がありました。地元の人たちは「三津刈屋口の戦い」で討死した武将の祠や墓を「〇〇さん」と呼んで大切にしています。街道沿いよりさらに東(県西に近い方)に点在する墓を訪ねて歩きます。
狭い路地に入って最初に現れた墓は「長袖さん」(写真左下)。本当の名前は不明ですが、討死した際の身なりから、こう呼ばれるようになったそうです。当時は武士に対して、公家や僧侶、神官などを、その服装から「ながそで」とか「ちょうしゅうしゃ(長袖者)」と呼んでいます。お公家さんが地方の戦場に来ることはまれでしょうが、当時、神職の人が戦に参加することはありますし、戦陣に同行する「陣僧」と呼ばれる人たちもいました。
さらに道を行くと、民家の庭に「能島さん」の墓が見えます(写真右上)。ちょうどその家の親切そうな住人さんが出てきて、「庭に入って見てもいいですよ」と言ってくださったので、遠慮なく中に入りました。
墓の横の石碑には、「能島城主 能島内匠頭 源吉忠」と書いてありました。村上海賊(村上水軍)の村上氏は村上源氏の末裔と称しており、「源」は分かるのですが、「能島城主」は村上武吉か元吉であるべきです。
村上海賊の三家(能島、因島、来島)のうち、因島村上氏の当主村上吉充の弟に村上吉忠という人がおり、この人物のことではないかと考えられます。
次に見えてきたほこらは「若宮様」と書かれてありますが、討死した「曾根さん」をまつっています(上の写真2枚)。喜多郡(今の内子町)の曾根城を支配した曾根氏は、河野氏とつながりのあった武将で、豊臣秀吉の四国攻めの後、喜多郡を追われて毛利氏に仕えました。「三津刈屋口の戦い」で討死したのは、曾根景房という人物のようです。
おや、同行していたN先生が「若宮様」を拝んで、御賽銭をあげようとしています。N先生いわく、「いや~。以前に曾根さんの論文を書かせてもらったので、思い入れがあって・・・」。
(でも、小さい祠ですから、御賽銭箱はありませんよ・・・。)
さて、案内図を見た時から気になっていたのですが、討死した武将の墓に、「阿部さん」「橋本さん」という名が・・。「三津刈屋口の戦い」で討死したらしいのですが、「阿部さん」と「橋本さん」がどういう人物なのか、詳しいことは分かりません。でも私は早く「橋本さん」の墓を見たくて、細いあぜ道をたどっていきました。道が開けて、観光港へ向かうバイパス(県道松山港線)に出ました。「えっ。普段よく通っている、しかもこんな大通り沿いに「橋本さん」の墓があるの?
そして、これが「阿部さん」「橋本さん」の墓です。
ああ、「橋本さ~ん」・・・(涙)。
あれっ、拝もうとして気付きました。写真の右が「阿部さん」、左が「橋本さん」なのです。
(えっ、個人的には、大きい方が「橋本さん」ではないの?・・・。少し残念です。)
気を取り直して、最後に三津嚴島神社のルーツ、「三津大明神」の跡へ向かいました。
13期生が5年生の時の日本史夏休み研究レポートでは、3人の生徒が三津嚴島神社について調べていました。嚴島神社は元々は別の場所にあって「三津大明神」と呼ばれていたのが、慶長年間に改めて現在地に移されたということでしたよね。もとの場所は調べましたか?現地を自分の足で歩き回り、史料や文化財を自分の目で見るのが、地域史研究の醍醐味ですよ。
「三津大明神」はフジケンビルのすぐ近く、民家の敷地内で大切にまつられていました。残念ながら、「三津刈屋口の戦い」の戦火で焼かれてしまったのですね。
でも、本当に広島の嚴島神社より古いのでしょうか?実は、神社や寺院の起源に関する伝承は、誇張されていることも多く、注意が必要です。客観的な史料として、『延喜式 神名帳』いう史料があり、平安時代に朝廷から認められた各国の神社の名前が記されています。現在松山市にある神社では、國津比古命神社、櫛玉比賣命神社、阿治美神社(阿沼美神社)、湯神社、伊佐尓波神社(伊佐爾波神社)、伊豫豆比古命神社(椿神社)の6社しか記されていません。
歴史的事実はどうであれ、江戸時代以降、三津嚴島神社が地元の人たちから愛され、大切にされていることは間違いのない事実ですから、少々のことは気にしなくて大丈夫ですよ。機会があれば、三津嚴島神社の文化財についても、ホームページにアップしたいと思います。
番外編予告 村上海賊の当主 村上元吉の墓を訪ねて県外へ!